当時すでにキリスト教が禁教とされてはいたが、まだそれほど取締りは厳しくなかった。 しかし日本沖でスペイン船が難破し、積み荷を巡って幕府とトラブルになる。 その中で乗組員が「宣教師を送り込み、キリスト教を浸透させて植民地化をしやすくすることで、スペインは勢力を拡大してきた」と話したことから、豊臣秀吉が危機感を募らせ、キリシタンの捕縛命令を出した。 そして京都・大阪で24人の宣教師と信徒が囚われの身となった。
1596.12.8 豊臣秀吉により、バテレンとキリシタンの捕縛命令が出され、24名(子供含む)が拘束される。
1597.1.3 京都で左耳たぶを削ぎ落とされ、大阪、堺と市中引き回しの刑。
1596.1.10 「長崎で処刑せよ」との秀吉の命により、大阪より旅立つ。 真冬にもかかわらず、着物一枚、裸足で後ろ手に縛られて、長崎へ向かう。 約1000キロに及ぶ、死の旅の始まりであった。
衣服は左耳からの出血で汚れ、髪形、姿もボロボロになった。 遠巻きにする群衆からは石を投げつけられ、血を流した傷口が膿んでもそのままにされた。 それは悲惨な有様だったが、彼らは殉教の喜びに微笑みを絶やさなかったという。
1597.1.26 下関到着。ここまで一行の世話をしていた信徒が加わり、捕縛者は26名となる。
九州へ入ると沿道の人々の反応がこれまでと一変して、信徒に同情的になり、後を追う者も出てくるようになる。 それは同行する役人が薄気味悪く感じるほどだったという。
1597.2.1 唐津にて、刑の執行責任者となる寺沢半三郎に引き渡される。 半三郎が最年少12歳のルドビコ茨木を憐れみ、信仰を捨てて自分に仕えるよう進言する。 しかしルドビコは「永遠の命を、この世のつかの間の命と取り替えることはできません」と断ったという。
1597.2.5 長崎に到着。そのまま磔になり、殉教。
ついに長崎に入った26人。 現在の東彼杵から船で大村湾を渡り、時津を経由して長崎市西坂に至る「浦上街道」を通って、 翌日には処刑場に辿り着いた。 その行程は、以下の通りである。
1597.2.4 夕方、東彼杵に着き、船で大村湾を渡る。
5~6時間ほどかけて船で移動し、時津へ。
深夜に時津港に着くが、キリシタンの多い時津に滞在することを役人が恐れ、26人は翌朝まで後ろ手に縛られたまま極寒の船上で夜を明かす。
1957.2.5 朝6時半ごろ時津に上陸。長崎へ向かって、最期の歩み。
「予定されていた処刑場は罪人用なので別の場所に」という長崎の宣教師たちの陳情を受けて、十字架を急遽別の場所に移すことになる。 その間、26人はサン・ラザロ病院前(現:山王神社近く)で休む。 そこに訪れた神父から、悲願であった「赦しの秘跡」を受けた。
1957.2.5 9時過ぎに長崎に到着。海を見下ろす西坂の丘で、すぐに十字架にかけられた。 次々に槍で両脇から貫かれ、昼ごろまでに全員が殉教。 遺体は磔のまま80日間さらされ、海から白く見えていたという。
彼らの死はルイス・フロイスら宣教師によってヨーロッパに伝えられた。 そして死後265年が経過したのち、「聖人」として列聖された。
26人の歩いた道のり
当時すでにキリスト教が禁教とされてはいたが、まだそれほど取締りは厳しくなかった。
しかし日本沖でスペイン船が難破し、積み荷を巡って幕府とトラブルになる。
その中で乗組員が「宣教師を送り込み、キリスト教を浸透させて植民地化をしやすくすることで、スペインは勢力を拡大してきた」と話したことから、豊臣秀吉が危機感を募らせ、キリシタンの捕縛命令を出した。
そして京都・大阪で24人の宣教師と信徒が囚われの身となった。
1596.12.8 豊臣秀吉により、バテレンとキリシタンの捕縛命令が出され、24名(子供含む)が拘束される。
1597.1.3 京都で左耳たぶを削ぎ落とされ、大阪、堺と市中引き回しの刑。
1596.1.10 「長崎で処刑せよ」との秀吉の命により、大阪より旅立つ。
真冬にもかかわらず、着物一枚、裸足で後ろ手に縛られて、長崎へ向かう。
約1000キロに及ぶ、死の旅の始まりであった。
衣服は左耳からの出血で汚れ、髪形、姿もボロボロになった。
遠巻きにする群衆からは石を投げつけられ、血を流した傷口が膿んでもそのままにされた。
それは悲惨な有様だったが、彼らは殉教の喜びに微笑みを絶やさなかったという。
1597.1.26 下関到着。ここまで一行の世話をしていた信徒が加わり、捕縛者は26名となる。
九州へ入ると沿道の人々の反応がこれまでと一変して、信徒に同情的になり、後を追う者も出てくるようになる。
それは同行する役人が薄気味悪く感じるほどだったという。
1597.2.1 唐津にて、刑の執行責任者となる寺沢半三郎に引き渡される。
半三郎が最年少12歳のルドビコ茨木を憐れみ、信仰を捨てて自分に仕えるよう進言する。
しかしルドビコは「永遠の命を、この世のつかの間の命と取り替えることはできません」と断ったという。
1597.2.5 長崎に到着。そのまま磔になり、殉教。
長崎:浦上街道を行く
ついに長崎に入った26人。
現在の東彼杵から船で大村湾を渡り、時津を経由して長崎市西坂に至る「浦上街道」を通って、
翌日には処刑場に辿り着いた。
その行程は、以下の通りである。
1597.2.4 夕方、東彼杵に着き、船で大村湾を渡る。
5~6時間ほどかけて船で移動し、時津へ。
深夜に時津港に着くが、キリシタンの多い時津に滞在することを役人が恐れ、26人は翌朝まで後ろ手に縛られたまま極寒の船上で夜を明かす。
1957.2.5 朝6時半ごろ時津に上陸。長崎へ向かって、最期の歩み。
「予定されていた処刑場は罪人用なので別の場所に」という長崎の宣教師たちの陳情を受けて、十字架を急遽別の場所に移すことになる。
その間、26人はサン・ラザロ病院前(現:山王神社近く)で休む。
そこに訪れた神父から、悲願であった「赦しの秘跡」を受けた。
1957.2.5 9時過ぎに長崎に到着。海を見下ろす西坂の丘で、すぐに十字架にかけられた。
次々に槍で両脇から貫かれ、昼ごろまでに全員が殉教。
遺体は磔のまま80日間さらされ、海から白く見えていたという。
列福・列聖、そして今日まで
彼らの死はルイス・フロイスら宣教師によってヨーロッパに伝えられた。
そして死後265年が経過したのち、「聖人」として列聖された。